新開寛山
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代々陶業の家に生まれ、祖父に三代清風与平、叔父に四代清風与平を持つ[5]。京都市立美術工芸学校図案科に入学し、並行して実家の工房の職人から技術指導を行ってもらっていた[6]。卒業後、1930年に第11回帝展で初入選を果たした[1][5]。
その後、1932年から五代清水六兵衛に師事し、戦前は染付を主体とする作品で帝展・新文展に出品した[1][5]。1943年に出兵し中国に送られ、のちにシベリア抑留となった[7]。シベリアでは、メーデーのプラカードにウラジーミル・レーニンとヨシフ・スターリンを書かされたことをきっかけに、絵ばかりを書かされていた[7]。
1948年に帰国すると、陶芸の材料が入手しづらかったため、羽子板の絵付けや当時流行していたベティ・ブープの漫画を描くなどしていた[8]。その後、妻から陶芸の行うよう説得され、妻が大阪や神戸まで陶芸作品を売り歩いてくれ生活を支えてくれた[8]。戦後の創作活動ではは陶土の研究を進め、日展を中心に陶器作品を発表していった[5]。
活動
作風
栄典
脚注
- 1 2 3 4 5 6 7 8 “新開寛山”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンク. 2026年3月22日閲覧。
- 1 2 「新開寛山 作家データ&作品一覧 」京都国立近代美術館
- ↑ 「日本芸術院要覧 昭和55年度」国立国会図書館デジタルコレクション
- 1 2 “昭和54年度日本芸術院賞決定”. 美術界年史. 東京文化財研究所. 2026年3月22日閲覧。
- 1 2 3 4 5 6 7 8 9 “新開寛山”. 古美術こもれび. 2026年3月22日閲覧。
- 1 2 『サライ 2008年9月号第476号』小学館、2008年、10頁。
- 1 2 『サライ 2008年9月号第476号』小学館、2008年、13頁。
- 1 2 『サライ 2008年9月号第476号』小学館、2008年、14頁。
- ↑ 『サライ 2008年9月号第476号』小学館、2008年、11頁。
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| 太字は恩賜賞受賞者。雅号、筆名、芸名等は受賞時のものによる。表記揺れによる混乱を避けるため、漢字は便宜上新字体に統一する。 | |||||||||