小場恒吉
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生い立ちと修学
秋田藩主佐竹家の一族である小場家の分家にあたる小場新吾の長男として、秋田県秋田町亀ノ丁堀反町に生まれた[2][1]。
13歳のとき、親戚の画人小室怡々斎(こむろ いいさい)に師事して狩野派の日本画を学んだ[2][1]。上京後は、荒木寛畝に日本画を、岡本椿所に篆刻を学んだ[3]。
1898年(明治31年)に秋田尋常中学校を卒業し[2]、同年、東京美術学校に入学した。当初は日本画科に学んだが、頼りにしていた同郷の日本画科教官寺崎広業が「美校騒動」で岡倉覚三(天心)らとともに学校を去ると、図案科へ転じた[2]。1903年(明治36年)に東京美術学校図案科を卒業した[1]。
教育者としての歩み
東京美術学校卒業後は、茨城県立龍ヶ崎中学校教諭、ついで秋田県立秋田工業学校教諭を務めた[1]。1908年(明治41年)1月、請われて東京美術学校助手となり[1][4]、1912年(大正元年)には助教授となって工芸史、紋様史を担当した[1]。
1916年(大正5年)には東京美術学校を辞し、朝鮮博物館事務の嘱託、朝鮮総督府学務局古墳調査課勤務、朝鮮美術審査委員会委員などを兼ねた[5][3]。その後、1925年(大正14年)6月には東京美術学校講師となり、工芸史の授業を担当した[3]。戦後は1946年(昭和21年)に東京美術学校教授となり、1949年(昭和24年)には東京芸術大学教授に就任した[3][1]。1952年(昭和27年)に退官した[2]。
朝鮮古蹟調査と壁画模写
1912年(大正元年)、関野貞の要請により、朝鮮江西の古墳壁画の模写を行った[4][2]。以後、1945年(昭和20年)まで断続的に朝鮮半島へ赴き、高句麗古墳壁画の模写、楽浪古墳の発掘、慶州南山仏蹟の調査などに携わった[4][6][3]。
1933年(昭和8年)には、朝鮮総督府宝物古墳名勝天然記念物保存会委員を嘱託され、年々渡鮮して古墳調査のかたわら高句麗壁画の模写にも従事した[3]。こうした実地調査は、のちの紋様史研究の基盤となった。
晩年
帰国後は美校図案科教授、芸術学科教授を務めた[6]。1949年(昭和24年)には法隆寺五重塔塔心礎内舎利容器の調査委員にも就任している[2]。翌1950年(昭和25年)には、日本の紋様の時代的特徴と変遷を跡づけた功績により、恩賜賞を受賞した[1][4]。
飛鳥から藤原期にかけての紋様研究と古寺の修復保存をライフワークとし[1][6]、芸大退官後も平等院鳳凰堂建築装飾紋様模写復元図の制作に余生を捧げた[2]。1958年(昭和33年)5月29日、東京都中野区の自宅で死去した[4][3]。
研究・業績
地域への貢献
年譜
- 1898年(明治31年) - 秋田尋常中学校卒業[2]
- 1903年(明治36年) - 東京美術学校図案科卒業[1]
- 1906年(明治39年) - 秋田県立秋田工業学校教諭[2]
- 1908年(明治41年) - 東京美術学校助手[1]
- 1912年(大正元年) - 東京美術学校助教授[1]
- 1916年(大正5年) - 朝鮮総督府学務局関係の勤務に就く[5][3]
- 1925年(大正14年) - 東京美術学校講師[3]
- 1946年(昭和21年) - 東京美術学校教授[3]
- 1949年(昭和24年) - 東京芸術大学教授[1]
- 1950年(昭和25年) - 恩賜賞受賞(「日本紋様の研究」)[1]
- 1952年(昭和27年) - 退官[2]
- 1955年(昭和30年) - 紫綬褒章受章[6]
