裸のマハ

ゴヤによる絵画 From Wikipedia, the free encyclopedia

裸のマハ』(はだかのマハ、西: La Maja desnuda, : The Naked Maja)は、18-19世紀のスペインの巨匠フランシスコ・デ・ゴヤが1797年-1800年ごろ、キャンバス上に油彩で制作した絵画である。1800年に宰相マヌエル・デ・ゴドイの収集にあったことが記録されており[1][2][3]、1808年にゴドイ邸の資産が押収された際に『着衣のマハ』とともにリストに記載されていた[1][2][4]。両作品は1836年以降、マドリード王立サン・フェルナンド美術アカデミーに寄託展示されていたが、1901年以来[1][4]、マドリードのプラド美術館に所蔵されている[1][2][4][5][6]

製作年1797年-1800年ごろ
寸法97 cm × 190 cm (38 in × 75 in)
概要 作者, 製作年 ...
『裸のマハ』
スペイン語: La Maja desnuda
英語: The Naked Maja
作者フランシスコ・デ・ゴヤ
製作年1797年-1800年ごろ
種類キャンバス油彩
寸法97 cm × 190 cm (38 in × 75 in)
所蔵プラド美術館マドリード
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背景

ディエゴ・ベラスケス鏡のヴィーナス』 (1647-1651年ごろ)、ナショナル・ギャラリー (ロンドン)

19世紀までのスペインでは、カトリック信仰の倫理異端審問があったために裸婦像は公的空間から排除されていただけでなく[3]、描くこともタブーにほかならなかった[2]。17世紀スペインの巨匠ディエゴ・ベラスケスは例外的に『鏡のヴィーナス』 (ロンドン・ナショナル・ギャラリー) を描いたが、それは異郷のローマにおいてである。ゴヤの時代にも、カルロス3世、そして次のカルロス4世が王室コレクションにあったティツィアーノルーベンスの裸体画に関して「卑猥な絵は集めて焼却せよ」と命令を下している[3]

1800年の時点で、『裸のマハ』は、ベラスケスの『鏡のヴィーナス』や当時ティツィアーノの作品と見なされた別のヴィーナスなどともにマヌエル・デ・ゴドイの邸宅の私室に飾られていた[1][3][4]。したがって、本作は、絶大な権力を持っていた芸術庇護者ゴドイ自身によってゴヤに注文されたと考えられる[1][3]。おそらく、背中を見せる『鏡のヴィーナス』の対作品として、1795-1795年ごろに発注されたものであった[1]

作品

本作のモデルが誰であるかをめぐり、数えきれないほどの憶測とロマンチックな想像にもとづいた文学が生み出されている[2]。モデルの候補としては、アルバ侯爵夫人とゴドイの愛妾ペピータ・トゥドー (Pepita Tudó) が長い間有力であった[1][2][3][4][7]。しかし、現在では、この絵画にはいかなる寓意的意図もないとみる見解が大勢である[2]

ティツィアーノヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド』、1550年ごろ。プラド美術館
『裸のマハ』 (上) と『着衣のマハ』 (下)

ゴヤの息子ハビエルの証言では、ゴヤは「ヴィーナス」を描いたとしている[2]。ゴヤは自身の「ヴィーナス」を構想するにあたり、古代ギリシアローマから続く西洋美術の伝統的なモデルを思い起こしていた[1]。とりわけ、宮廷画家としてスペイン王室のコレクションに豊富にあったティツィアーノとルーベンスの神話的裸体画を学んだに違いない[3]。しかしながら、ゴヤは古典的なモデルを超越すると同時に、女性裸体像の新しい概念を創造した[1]

本作において、ゴヤはティツィアーノの『ヴィーナスとオルガン奏者とキューピッド』 (プラド美術館) [8]などとは異なり、キューピッドもキューピッドを暗示するものも一切描いていない[4]。女性像は先例のないポーズで表されている[3]。当世風の長椅子に横たわる[1]女性の身体は、画面右上から左下へ対角線上に配されている。両手は頭の後ろに回されているため、鑑賞者の意識は下腹部に導かれるが、そこに陰毛が描かれたのは西洋絵画史上初めてとされる[3]。裸体像は光を浴びて浮き上がり、挑発的で蠱惑的な眼差しで鑑賞者を恥じらいもなく正面から見据え、その姿を人前にさらしている[1][6]。西洋絵画史上あまた描かれてきた裸体画の中でも、これほどまでに虚飾を剥ぎ取り、官能的な実相だけを残したものは珍しい[6]。かくして、古典的なヴィーナス像の非時間性は同時代の時間を表す情景に置き換えられており[1]、リアルに生々しく描き出された女性の姿は神話の世界とは程遠いものとなっている[2]。本作が象徴するのは、神話的世界から個人のヌードへの変貌である[9]

後にゴヤは、多少ポーズを変えて衣服を着せた『着衣のマハ』も描いている。しかし、本作『裸のマハ』が繊細な光や色彩の表現を特徴としている[1]のに対し、『着衣のマハ』には簡潔な技法が用いられており、空間の捉え方も裸体像と違っている。女性像が描かれる角度も異なり、長椅子、布、レースも変更されている。こうした特徴により、『着衣のマハ』は急遽制作される必要があったことを示唆する。19世紀初めにゴドイが自宅を改装した際、『裸のマハ』を隠すために『着衣のマハ』が描かれたのかもしれない[1]

題名

ゴドイの財産に含まれていた『裸のマハ』と『着衣のマハ』は1808年に差し押さえられたが、その時に財産目録を作成したナポレオンの代理人フレデリック・キイエ (Frédéric Quilliet) は、両作品を記述するために「ジプシーの女」という言葉を使った[1][4]。1813年に両作品は異端審問所によって押収されたが、その時の財産目録では「ヴィーナス」として言及されている。上述のように、ゴヤの息子ハビエルも王立サン・フェルナンド美術アカデミーのために書いた父親の短い伝記の中で、両作品を「平和公ゴドイが所有していたヴィーナスたち」と記している[1][4]

1814年にゴヤは異端審問所に出頭を命じられることになった[7]が、両作品の名称を最初に変えたのは異端審問所の審査官であった。彼は、1815年3月16日の報告書において、押収された「5点の猥褻な絵画」の来歴を明らかにしており、次のように述べている。

ベッドの上の裸体の女性を表している[...]作者はドン・フランシスコ・デ・ゴヤ。ベッドの上のマハの衣装をまとった女性、これもまた前述のゴヤの手による。[1]

かくして、両作品に関する記述から古典的な「ヴィーナス」への言及は消え、同時代的な特質に関心を向けることによって猥褻さを強調する「マハ」の名称が代わりに用いられるようになった。ちなみに「マハ」とは、特に18世紀末から19世紀初めにかけてマドリードの下町などで見られた、洒落た衣装で着飾った粋な女性たちのことを指す[1]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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