ペドロ・ロメロの肖像
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| スペイン語: Retrato de Pedro Romero 英語: Portrait of Pedro Romero | |
| 作者 | フランシスコ・デ・ゴヤ |
|---|---|
| 製作年 | 1795-1798年ごろ |
| 種類 | キャンバス上に油彩 |
| 寸法 | 64 cm × 85 cm (25 in × 33 in) |
| 所蔵 | キンベル美術館、フォートワース |
『ペドロ・ロメロの肖像』(ペドロ・ロメロのしょうぞう、西: Retrato de Pedro Romero、英: Portrait of Pedro Romero) は、18-19世紀のスペインの巨匠フランシスコ・デ・ゴヤが1795-1798年にキャンバス上に油彩で制作した絵画である。モデルの人物は、ゴヤのお気に入りのマタドール (正闘牛士) であった。作品は1966年に購入されて以来、米国テキサス州フォートワースのキンベル美術館に所蔵されている[1][2]。
この肖像画は、ロンダのロメロとセビリアのマタドール、コスティリャレスとの間に熾烈なライバル関係があった時期に描かれた。当時最高の肖像画家であったゴヤは、ロメロがお気に入りであった。 しかし、長い間、フランシスコ・ドミンゴ (Francisco Domingo) による『コスティリャレスの肖像』 (ラサロ・ガルディアーノ美術館、マドリード) は、ゴヤに帰属されていた[3]。

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランのマリー・アントワネットの肖像のようなものを望んだベナベンテ公伯爵夫人の肖像を描いた後、ゴヤはマドリードの宮廷で非常に厚遇されていた。しかしながら、ゴヤは、自らを「ならず者」と呼んだように、自身の好きな主題である闘牛の主題も扱えるように宮廷の束縛から逃れていた。そして、この主題をタピストリー下絵『若牛での闘牛』 (プラド美術館、マドリード) に描いたが、とりわけ版画集「闘牛技」で扱っている。「闘牛技」の版画は、後のマリアノ・フォルトゥーニや、「闘牛技」に見られるようにパブロ・ピカソなど多くの画家たちが参照している[4]。
作品
ロメロは1785年にロンダに闘牛場を開設した人物で、すでに若くはなかった彼は、セビーリャの闘牛学校の教師としての職を得た。本作が描かれた1795-1798年当時、ロメロはキャリアの絶頂にあり、40歳から45歳くらいの年齢であったと思われる[2]。いずれにしても、ロメロは1799年に闘牛士として引退しているため、この肖像画は彼が引退する少し前に描かれたものである[1]。
ゴヤのアイドルであったロメロは、労働者階級、そして、ゴヤを庇護した第9代オスーナ公爵ペドロ・テレス=ヒロン夫妻のアイドルでもあった[5]。ゴヤの友人で劇作家であったレオナルド・フェルナンデス・デ・モラティンは、ロメロを「勇敢、勇敢、自制心があり、大変な男前」と評している[2]。画中のロメロは黒いスカーフに髪の毛を隠しており、その美貌が明らかになっている。色黒で、眼は黒く大きく、鼻は均整がとれ、長いもみあげをしている。彼が身に纏っているのは、闘牛士の最上の衣服である灰色のベスト、フリルのついた白いシャツ、赤い裏地のある黒いジャケット、サクランボ色のケープである。ベストのボタンおよびシャツの襞は、非常に繊細かつ緻密に描かれている[2]。
ロメロのポーズに見られる大きな威厳、衣服の優雅さ以外にも、この肖像画は、ゴヤが彼に対して抱いていた尊敬の念を証だてている。作品はただ美しいというだけでなく、セビーリャの作家ホセ・ソモサ (José Somoza) が述べているところによれば、「フランシスコ・デ・ゴヤが描いたペドロ・ロメロの肖像を見るたびに、私は、半身の肖像画にこの有名で非凡な闘牛士を特徴づける方法を見出したゴヤの天才を称賛する。非常な生き写しの彼の顔は誠実さと繊細さを表し、その中には闘牛士本来の容赦ない獰猛さは微塵も感じられない」[6]。
ロメロの平静なポーズは闘牛士としての彼の技と一致したものであり、それはセビーリャのライバルたちとは対照的であった[1]。ロメロは5,000頭以上の牡牛を殺したといわれているが、彼自身は怪我をすることもなく、素早い仕草や優雅なケープの使用により一突きで牡牛を仕留めた。そして、「闘牛士は脚ではなく手に頼るべきで、闘牛場で牡牛と相対する時、逃げたり恐れを表したりする前に牡牛を殺すか、牡牛に殺されなければならない」と主張していた[1]。
来歴
本作はゴヤの家族の所有であったが、彼の息子ハビエル (Javier) の財産目録からは消えている。1812年には、セビーリャの未亡人ベラ (Vera) の所有となり、次いでパリのジャーナリスト、論客、収集家であったアンリ・ロシュフォール (Henri Rochefort) の手中に帰した。その後、作品はポー (フランス) のセバスティアン・ガブリエル・ド・ブルボン・ブラガンス (Sebastian Gabriel de Bourbon Bragance) が所有となり、彼からレオン・ラフィット (Léon Lafitte) が相続したが、ラフィットはロンドンのウィリアム・アドビー (William Adby) に売却した。最終的に、ニューヨークのアーサー・サックスが1966年に作品をキンベル美術館のために購入した[1][2][7]。