象徴の設計

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日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル 長編小説
象徴の設計
内務大臣時代の山縣有朋(1887年)
内務大臣時代の山縣有朋(1887年)
作者 松本清張
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル 長編小説
発表形態 雑誌連載
初出情報
初出文藝1962年3月号 - 1963年6月
出版元 河出書房新社
刊本情報
刊行 『象徴の設計』
出版元 文藝春秋
出版年月日 1976年11月15日
装幀 坂田政則
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象徴の設計』(しょうちょうのせっけい)は、松本清張歴史小説1878年から1887年までの明治時代を舞台として、天皇を頂点とする秩序の確立につとめる山縣有朋を中心に、政府・軍部・警察・国民の様相を描く。坂本一亀の依頼により[1]、『文藝』に連載され(1962年3月号 - 1963年6月号)、1976年11月に文藝春秋より単行本が刊行された[注釈 1]

竹橋事件の善後策に追われた山縣有朋は、わが国軍隊の欠点が、未だ藩兵意識から脱け切れないところにあり、軍隊が国家のものであるという観念を確立せねばならぬと思った。軍隊の中に自由民権運動が浸透してくるのを恐れた有朋は、兵士の頂上に立つ精神的な象徴を作らなければならないと考えるが、フランス兵制を訳した「神の御名において」とは、日本人の感情にはせまってこず、砂地の上に書いた文字のように弱く感ぜられた。

有朋が竹橋事件後にまとめた軍人訓戒では不十分であり、天皇が軍隊の直接上官の形にしなければならない、また、兵卒に天皇への忠節の「理由」を説く必要はないと有朋は考えた。結論だけで命令することが、より絶対的となり、より神聖化される。理由を述べることは、そこに批判の余地を残す。天皇の絶対性を固めることであり、西周による稿本および福地源一郎の意見を参照しつつ、有朋は軍人勅諭の発布にこぎつけた。

軍人の有朋は、いつも自分と並んでいるようでいて、実は常に一歩先に出ている伊藤博文にひそかな反撥感を持ち、政治よりも軍隊作りの内にだけ己の執念を集中させていた。板垣退助らには外遊費を財閥から出させて軟化させようとする一方、自由民権運動に伴い続発する暴動を抑え、新聞紙条例保安条例の制定を通じて、有朋は軍隊内部および群衆の危険分子を取り締まった。

1885年椿山荘への天皇の行幸があり、有朋は静かな幸福感に浸ったが、まだまだこれからが難儀だという屈託があった。有朋は昨年死んだ岩倉具視のことを考えた。口には出さないが、天皇を自分たちの力でここまで押し上げたという自負があった。下級公卿出身の岩倉は、朝廷の弱点をよく心得ており、象徴の設計は、自分も一個の足軽であった有朋が、岩倉の設計を引き継いだものであった。

主な登場人物

  • 歴史的人物の実際に関してはリンク先を参照。
山縣有朋
陸軍卿でのち参謀本部長。参事院議長を兼任。訥弁で話下手だが、「一介の武人」として毎朝槍を振るい、謹厳に身を置いた生活を送る。富士見町から目白台椿山に移転する。伊藤や井上からは「狂介(きょうすけ)」と呼ばれる。
品川弥二郎
内務大書記官。プロイセンで地方制度や農政の研究に努めた。のち農商務大輔に昇進。有朋の邸に頻りに来訪する。
西周
宮内省御用係。津和野藩出身。有朋の依頼で軍人勅諭の稿を練る。軍人社会は一般市民社会と豁然と分れると説く。
福地源一郎
東京日日新聞の主筆。東京府議会議員。のち帝政党を創立する。
伊藤博文
内務卿でのち参議。大久保利通のあとをうけ表舞台に踊り出で、華やかな存在となる。好色で遊蕩をなし、万事派手好み。有朋からは「俊輔(しゅんすけ)」と呼ばれる。
桂太郎
陸軍省参謀本部関西局長中佐。参謀本部を立案。フランス式からドイツ式の軍制への変更を進言。有朋の邸に頻りに来訪する。
井上馨
太政官大書記官のち外務卿。有朋からは「聞多(もんた)」と呼ばれる。
板垣退助
自由民権運動に関与。農村を基盤として自由党を組織する。
松方正義
大隈重信の後任の大蔵卿。デフレ政策を実施。
三島通庸
福島県令。密偵を駆使し福島県内の自由党撲滅に努める。
山縣友子
有朋の妻。長州豊浦郡吉田村の出身。
津村藤兵衛
改代町の古着屋「藤川屋」の当主。警視庁の元巡査で諜者。
西村織兵衛
内務省十等属。駕籠町に住む。
武井守正
内務省権大書記官。
石井邦猷
権中警視。
川路利良
大警視。
曾我祐準
陸軍士官学校長少将。フランス兵制心酔者。三浦梧楼谷干城鳥尾小弥太と連名で、議会開設及び憲法制定を訴える建白書を提出する。
大島久直
陸軍少佐。
南条文雄
仏典研究者。イギリスに留学しフリードリヒ・マックス・ミュラーに師事。
大浦兼武
大阪府警部長。大阪事件を未然に探知し有朋を感心させる。
小原弥惣八
東京第一連隊の伍長。国会開設請願の遺書を持って赤坂仮皇居表御門の前で割腹する。
三条実美
太政大臣。

林房雄との論争

連載終了直後に、林房雄が『朝日新聞』の文芸時評欄に本作への批判を発表したことから、林と清張の間で以下の論争が行われた。

この後、林房雄による再反論は掲載されなかった。清張は同年に小論「奇怪な「史観」-林房雄氏との小さな論争-」を発表、論争の経緯を要約し「林氏は、明治の「民」の意義をかなり後退させて板垣退助や河野広中の民権論者に限定させている。第一回の「民」という文章からすると一種の詐欺ともいえる。板垣退助などが明治の「民」の代表にならないことは今さら云うまでもない」「また林氏の文章からみると、政府の富国強兵策に日本国民全部が共鳴し、戦争準備のため協力したように取れるが、ここにも氏の皇国史観的独断がある。林氏は松方デフレ政策を紙幣膨張の収縮策であったと云っているが、そんなことは林氏に聞くまでもなく当り前の常識となっている。しかし、松方デフレ策の裏には、前に記したように、燎原の火の如く全国的にひろがった自由党民権運動の糧道を断つための意図が隠されていたというのが私の解釈である。小説は常識通りの理論をそのまま書くのではなく、作者の解釈を強調するところに意義があると思っている」「さらに林氏は、「私の大東亜戦争肯定は私自身の歴史研究の成果であって、現在でも変らない。この無謀な戦争が世界史の転換に与えた衝撃はウエルズやトインビーの証言を待つまでもなく、戦後の世界史が実証している」と揚言している。これは目的と結果を取違えた暴論」であり「結果的には世界史の転換の役目をつとめたとしても、その結果だけを強調し、「目的」をスリかえてごまかしたのは大きな欺瞞である。たとえば、放火をしたため町が焼け野原になり、立派な区画整理が出来たからといって、その放火の意義を認めるようなものだ。林氏の「大東亜戦争肯定」に至る氏自身の「歴史研究の成果」がどのようなものか分らないが、氏がこの結論を云う以上、詳しくその研究成果を発表すべきである」と補足している[注釈 4]

評論

関連項目

脚注

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