新羅征討計画

From Wikipedia, the free encyclopedia

新羅征討計画(しらぎせいとうけいかく)では、古代日本における新羅征討計画について概説する。

飛鳥時代より以前については、三韓征伐を参照のこと。

雄略朝の新羅征討

任那国司の吉備上道田狭が新羅に寝返ったため、吉備上道弟君らを新羅征討に向かわせたが弟君も寝返ろうとしたため暗殺された。 その後雄略天皇は自ら新羅親征を計画したが中止になり、代わりに紀小弓蘇我韓子大伴談小鹿火宿禰からなる新羅征討軍が派遣された[1]。 征討軍は新羅王を敗走に追い込むもののその後の戦いで苦戦を強いられた上に仲間割れからの殺し合いになった末に新羅軍の逆襲で壊滅し、4将軍のうち小鹿火宿禰だけがかろうじて生きて日本に帰国することができた。

継体朝の新羅征討計画

近江毛野率いる新羅征討軍の進軍を筑紫磐井が阻んだため戦闘になった。

宣化朝の新羅征討

宣化天皇2年10月に新羅が任那を攻めたので、宣化天皇は大伴金村に命じて救援の軍を送った。

欽明朝の新羅征討

新羅征討
戦争
年月日:560年前後
場所:朝鮮半島
結果:伽耶と任那の滅亡。
交戦勢力

百済
大伽耶
新羅
指導者・指揮官
欽明天皇
聖王 
威徳王
紀男麻呂
真興王
戦力
不明 不明
損害
不明 不明


南扶余(百済)、大伽耶、倭の連合軍が新羅・管山城で新羅軍に大敗し南扶余の聖王が戦死した。 新羅はその後任那を攻め滅ぼして併吞したので激怒した欽明天皇紀男麻呂を大将軍とする征討軍を派遣したが壊滅して多数の捕虜を出し、任那復興に失敗した。 大和朝廷はその後、任那の復興を試みて何度も朝鮮半島への出兵を繰り返すことになる。

崇峻朝の新羅征討計画

崇峻天皇欽明天皇の悲願であった任那復興を計画し筑紫に2万人の兵を集めたが直後に暗殺されたため遠征計画は立ち消えになった。

推古朝の新羅征討

新羅征討
戦争
年月日:600年-623年
場所:朝鮮半島
結果:不明
  • 朝鮮半島における倭の拠点が消滅
交戦勢力
新羅
指導者・指揮官
推古天皇
境部摩理勢
来目皇子
当麻皇子
中臣国
境部雄摩侶
真平王
戦力
数万 不明
損害
不明 不明


日本書紀によれば、飛鳥時代にも朝鮮半島への軍事行動が計画された。西暦562年任那日本府新羅によって滅ばされた。これを回復するための「征討軍」が推古朝に3度、計画され、1度目は新羅へ侵攻し、新羅は降伏している[2]

第1次新羅征討

1度目は推古8年(西暦600年)2月で、任那を救援するために新羅へ出兵した[2]蘇我氏の一族である境部摩理勢(境部臣)が征新羅大将軍に任命され、副将軍は穂積祖足(穂積臣)であった[2]。五つの城が攻略され、新羅は降伏した[2]。さらに、多多羅(たたら)、素奈羅(すなら)、弗知鬼(ほちくい)、委陀(わだ)、南迦羅(ありひしのから)、阿羅々(あらら)の6つの城が攻略された[2]。難波吉士神(なにわのきしみわ)を新羅に派遣し、また難波吉士木蓮子(なにわのきしいたび)を任那に派遣し[2]、両国が倭国に朝貢を約させた[2]。しかし、倭国の軍が帰国したのち、新羅はまた任那へ侵攻した[2]

翌推古9年(601年)3月には、大伴連囓(おほとものむらじくひ)を高麗(こま)に派遣し、坂本臣糠手(さかもとのおみあらて)を百済へ派遣し、任那救援を命じた[2]

推古9年(601年)9月8日、新羅の間諜(うかみ。スパイのこと)である迦摩多(かまた)が対馬に上陸したところ、捕えられて、上野国に送還された[2]11月5日、新羅への第二次征討計画が図られる[2]

第2次計画

推古10年(602年)2月、聖徳太子の弟来目皇子が征討将軍として軍2万5千を授けられる[2]。4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営した[2]。6月3日、百済より大伴連囓と坂本臣糠手が帰国する[2]。しかし、来目皇子がを得て新羅への進軍を延期とした。なお、10月に百済の僧侶観勒が倭国に訪れる。

来目皇子は、征討を果たせぬまま、翌推古11年(603年)2月4日、筑紫にて薨去[2]。来目皇子は、周防娑婆(遺称地は山口県防府市桑山)にし、土師猪手がこれを管掌した[2]

第3次計画

推古11年(603年)4月、来目皇子の異母兄当麻皇子(たいまのみこ)が征討将軍に任命される[2]。推古11年(603年)7月3日、難波より出航し、7月6日に播磨に到着するが、妻の舎人皇女明石に薨去したため、当摩皇子は朝廷に帰還し、計画は潰えた[2]

第2次新羅征討

藤原仲麻呂による新羅征討計画

藤原仲麻呂による新羅征討計画
場所 新羅
計画主体 日本・朝廷
計画責任者 藤原仲麻呂
年月日 759年
結果 中止
テンプレートを表示

天平宝字2年(758年)、安禄山の乱が起きたとの報が日本にもたらされ、藤原仲麻呂大宰府をはじめ諸国の防備を厳にすることを命じた。天平宝字3年(759年新羅が日本の使節に無礼をはたらいたとして、仲麻呂は新羅征伐の準備をはじめさせた。軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的な遠征計画が立てられたが、この遠征は後の孝謙上皇と仲麻呂との不和により実行されずに終わった[3][4]

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI